ふるさと通信「被災地はいま」(2)
2017年6月7日。東京電力福島第1原発事故の避難指示が解除された福島県飯舘村に、6年ぶりに牛の鳴き声が響きました。避難生活の間も畜産再開の希望を捨てずに温めた、「水田を北海道並みの放牧地にして牛を飼おう」という常識破りの試験の始まりです。 同村松塚の農業山田猛史さん(68)は福島市の避難先の牛舎から雌の黒毛和牛6頭を運びました。牛舎しか知らない牛たちは自由な楽園と知り、うまそうに牧草をはみました。
山田さんと共同で試験に取り組む福島県畜産研究所は秋まで2回、牛や牧草に土壌から放射性物質の移行がないかを調べます。事前検査では牧草から全く検出されず、「安全を確認すれば、新しい農業復興策として県内の被災地に広めたい」と期待します。汚染土の黒い袋が野積みされ、後に盛られた山土が砂漠のように広がる村で貴重な希望の芽です。
村は阿武隈山地の高冷地。宿命的な冷害克服の農業として農家は畜産に取り組み、223戸が約3000頭の和牛を飼っていました。原発事故後の全村避難で大半の牛は処分されましたが、山田さんは愛着を捨てず避難先でも生業を続けました。後継者の三男豊さん(34)は家族と福島市に避難。偶然読んだ雑誌で京都市の食肉卸会社「中勢以」を知り、「食肉の面から牛を勉強し直したい」と思い立って就職。山田さんにも希望を与えました。
地元の関根松塚行政区は村内でも放射線量が低い地域ですが、住民に「帰還後」の土地利用を聴くと、「水田で稲作」は3人だけで自家米作りでした。「飯舘のコメは風評で売れない」との諦めが多くの農家にあるのです。耕作放棄地が増える懸念に、米価暴落も加わりました。行政区の復興部長になった山田さんが着想した解決策が「水田放牧」でした。
山田さんの提案を受けた飯舘村を通じて、福島県は「水田放牧」に注目。県畜産研究所との共同試験が決まったのでした。山田さんはあぜを撤去し、山砂で覆われていた水田をトラクターで耕運し、牛の堆肥を運んで散布し、16年10月に牧草の種をまきました。
京都にいた三男の豊さんも16年3月に家族と福島市に戻り、再び父親と一緒に働いています。思い描くのは「良質な和牛の肥育から肉の販売まで一貫して手掛けたい」という新しい将来。山田さんも地元の農家から水田を借り、来年以降の放牧地を広げようとしています。「避難先の後継者たちが夢を持って帰還できるよう道を開けたら」と願います。