ふるさと通信「被災地はいま」(1)
2017年3月31日、福島県飯舘村交流センターに村民300人が集いました。東京電力福島第1原発事故以来の政府の避難指示解除が6年ぶりに解除され、再出発を祝う式典があったのです。菅野典雄村長は「きょうはゴールでなく復興のスタートに立った日」と述べました。が、帰還した住民は現在333人。以前の人口約6000の5%ほどです。 住民半が戻らない集落がある中で「ここは別。26戸のうち20戸は帰るそうだ」。福島市松川町の仮設住宅から同村八和木地区に、農家の夫幸正さん(70)と帰還した佐野ハツノさん(68)は話しました。「『『娘夫婦が福島市に建てた家に世話になっているが、二重生活を覚悟で家に戻る』だって。仲間は皆、老人会の年齢だけども、地元が恋しいの」
原発事故前はコメやタバコ、野菜を栽培し、和牛繁殖を手掛け、「どうげ」という農家民宿を開いていました。「農家の嫁は汗だくで働け」といわれた時代の89年、村が企画した女性の海外研修「若妻の翼」でドイツの農村の豊かさを知って以来の夢。「飯舘の自然と暮らしを味わえる」宿は常連客に恵まれましたが、それも原発事故に奪われました。
11年7月末、福島市松川町の仮設住宅の管理人を引き受け、平均年齢が約70歳、半数が独居という住民の支援に追われました。引きこもる仲間を元気にしようと、村の主婦の伝統技だった古い着物の普段着への仕立て直し、「までい着」作りの活動を呼び掛けました。「カーネーションの会」を結成し、首都圏の百貨店も毎年3月、「飯舘村支援フェア」として販売会を催してくれました。「避難生活中の励みになった」とハツノさんは言います。
しかし、避難生活と管理人の激務は、ストレスと疲れでハツノさんの健康を損なわせ、13年夏、直腸がんを発症。以後3回の手術など長い闘病生活を余儀なくさせました。管理人を辞したハツノさんは、仮設で90歳になった両親の面倒を見ながら、幸正さんと自宅に通いました。除染で家の周囲の放射線量も下がり、帰還準備への思いが募ったのです。
避難指示解除後の八和木集落ではいま、除染語の水田で農家仲間が田植えを行いました。でも、まだ1軒だけ。多くの水田はいまだ汚染土の黒い袋の山に埋もれ、幸正さんはハウスでの自給自足の野菜作りです。「原発事故前には戻らないが、6年の苦しさを思えば、この心の自由は何にも替えられない」とハツノさん。闘病しながらも、笑顔で前を向きます。
プロフィール
寺島 英弥 (てらしま ひでや)/ジャーナリスト、河北新報論説委員。1957年、相馬市出身、早大法卒。阿北新報記者として東北の暮らし、農漁業、歴史などの連載を担当し、11年から東日本大震災、福島第1原発事故の被災地を取材。著書に「悲から生をつむぐ 『河北新報』編集委員の震災記録300日」(講談社)、「東日本大震災 希望の種をまく人びと」、「東日本大震災3年目 海よ山よ、いつの日に還る」、「東日本大震災4年間の記録 風評の厚き壁を前に」、「東日本大震災 何も終わらない福島の5年 飯舘、南相馬から」(以上、明石書店)など。