「福島訪問レポート」&「放射線防護学コラム」
安斎 育郞
経歴
東京生まれ。 東京大学工学部原子力工学科卒業。 同大学大学院工学系研究科原子力工学専門課程博士課程修了工学博士。「放射線管理におけるPersonnel Monitoringに伴う不確定さの確率論的評価に関する研究」。立命館大学経済学部教授。「核実験停止を求める国際科学者フォーラム」に招待される。京都しり造形芸術大学非常勤講師として平和学を担当。
現在
立命館大学定年退任、名誉教授。
こんにちは。安斎育郎(あんざい・いくろう)と申します。
私は放射線から身を守る「放射線防護学」の専門家で、2013年5月に仲間たちと「福島プロジェクト」を立ち上げ、福島の人々とともに現場に立ち、どうすればもっと不安のない生産活動や生活や子育てが出来るかを一緒になって考え、実践する活動に取り組んできました。福島訪問は、2019年7月7日・8日の訪問で62回目を迎えました。事故直後の2011年4月~2013年5月の間は一匹狼で福島通いをしていましたから、福島訪問は80回ぐらいになるかもしれません
なぜ福島にこだわるのか
なぜ私がそんなに「福島」にこだわるのかについては、ちょっと解説が必要かもしれません。 私は1940(昭和15)年に9人きょうだいの末子として東京で生まれましたが、時は戦争の時代、4歳のときに空襲を逃れて父母の故郷である福島県二本松に疎開し、そこで5年間を過ごしました。福島は私の第2の故郷なのです。
原発政策を批判後に起きたこと
長じて東京大学工学部原子力工学科の第1期生になり、この国の原発開発を支える高級技術者になる道を選んだのですが、実際に勉強してみたらこの国の原発政策の乱脈ぶりが身に染みて分かり、1968年ごろから原発政策を批判するようになりました。
そして、1972年(もう47年も前のことですが)、当時「科学者の国会」と呼ばれていた「日本学術会議」が開いた歴史上最初の原子力発電問題シンポジウムで基調報告を頼まれ、日本の原発政策を全面的に批判しました。批判は「6項目の点検基準」にそって全面的に展開されましたが、それらは、(1)日本の原子力開発は自主性を欠き、対米従属的ではないか、(2)経済開発優先か、安全性優先か、(3)地域への原発立地が内発的な地域開発計画を阻害しないか、(4)軍事利用への歯止めは十分か、(5)労働者と住民の安全を担保する技術的安全性が実証科学的に保証されているか、(6)それらを下支えする原子力行政の民主性が担保されているか、の6項目です。
この演説以降、私は「反国家的イデオローグ」とか「反原発の論客」と見なされるようになり、いろいろなハラスメントを体験しました。私は当時東京大学医学部放射線健康管理学教室の文部教官助手でしたが、研究・教育活動から一切外されて村八分状態に置かれ、研究室では「安斎とは口をきくな」「一緒に歩くな」「食事をするな」などの教授の指示によるルールが敷かれ、私の机の左隣には東京電力から派遣されていたT医師が安斎情報を東電に通告するレポ(スパイ)として置かれ、主任教授からは(市の職員を怒鳴り散らしたあの明石市長のような)パワハラを受け、地方に講演に行けば尾行がつき、他大学の人事に応募すると小雑誌が「反原発のスター安斎育郎氏」などという小特集を組んで人事委員 会に送り込むなど、言い出すと切りがないさまざま なハラスメントを経験しました。結局、東京大学医学部では17年間の助手生活を送りましたが、ある週刊誌が「ガラスの檻に幽閉17年」という小特集記事を組んだこともありました。
国際平和ミュージアム」の設立
その1970年代から80年代にかけて私は福島県の浜通りの原発地帯に度々通い、地元の人たちと反原発運動に取り組んでいました。1973年には日本で初めての住民参加型原発公聴会にも取り組み、1975年には「福島第2原発1号炉設置許可処分取り消し訴訟」という原発訴訟にも参加、訴訟準備はも とより、自ら裁判所で原告住民側の立場で科学者証 言も行ないました。
ご縁を得て京都の立命館大学経済学部教授として移ってきたのはチェルノブイリ原発事故が起きた1986年のことでした。立命館大学では世界初の大学立の総合的平和博物館である「国際平和ミュージアム」の設立に関わり、その館長を10数年務めた上で2008年からは終身名誉館長として、そして現在は、「平和のための博物館国際ネットワーク(INMP)」という国際組織の代表も務めています。その中での毎月の福島通いは結構大変ですが、今後も息長く続ける予定です。
被曝を減らす実践活動
このような経歴ですから、2011年3月11日の東日本大震災を機に発生した東京電力第1原発の事故に直接の責任を負う立場にはないでしょうが、私は、このような人類史的な事故が起こる前に、乱脈な日本の原発政策を食い止めるだけの国民的な抵抗線をこの国に築けなかったことに大きな道義的責任と悔しさを感じています。事故直後のマスコミ攻勢の翌月に福島を訪れ、70年代から一緒に原発反対運動に取り組んできた楢葉町宝鏡寺の早川篤雄住職らといわきから浜通りを浪江まで北上して放射線レベルを測り、事態の深刻さを深く認識しました。 起きてしまった事故の原因や責任は別途徹底的に追求するとして、まずは、起きてしまったこの環境下で福島県民がどのようにして「放射線は被曝しないに越したことはない」という放射線防護学の原則を踏まえて暮らしていけるのか、その相談に乗り、被曝を減らす実践活動に取り組むことが、せめてもの放射線防護の専門家としての私の贖罪であり責任であると強く感じています。 私が見るところ、「帰還困難区域」など、これから何十年も帰還困難であり続ける地域がありますが、私たちの調査では、人々が現在暮らしている生活の場では放射線レベルが顕著に低くなりつつあり、生活環境で浴びる外部被曝も、水や空気や食品に由来する内部被曝も、他の都道府県の人々が受けている自然放射線や医療上の放射線被曝(世界一高い!)に比べて特に高いという実態もなく、被曝を減らすための放射線防護学の4原則(①生活空間の放射能汚染を除去する〈除染〉、②放射能汚染からの放射線を食い止める〈遮蔽〉、③放射能汚染から離れる〈距離〉、④放射線レベルの高いところに長居しない〈時間〉)を実践することによって、被曝はさらに減らすことが出来るものと確信しています。
このシリーズでは、60回をこえた調査の結果を踏まえつつ、福島の実態がどうなっているのか、どうすればさらに被曝を減らして、安心を手にすることが出来るのかについて順次解き明かしていきたいと思います。