ふるさと通信「被災地はいま」(5)
寺島 英弥 (てらしま ひでや)
ジャーナリスト、河北新報論説委員。1957年、相馬市出身、早大法卒。阿北新報記者として東北の暮らし、農漁業、歴史などの連載を担当。 11年から東日本大震災、福島第1原発事故の被災地を取材。
”飯舘村比曽に8年ぶりにトルコキキョウが咲く”
白、ピンク、紫のトルコキキョウ、そしてカスミソウ。 飯舘村比曽の農家、菅野啓一さん(63)と妻忠子さん(64)は8月初めから、毎朝4時半から朝採りした花を千数百本、東京・大田市場に出荷しています。2011年3月の福島第1原発事故で全村避難を強いられた歳月を挟んで8年ぶりに、今年2月の帰還とともに再開した花作りです。原発事故の12年ほど前からトルコキキョウの栽培を手掛け「農業を再開するなら、風評の付きまとう食べ物でなく花と決めていた」。 阿武隈山地の冷害常襲地だった村で、コメに代わる特産品として花作りを広めた1人です。「地元の農家仲間と誘い合って、ハウス1棟で試験的に始め、面白くなって2年目からのめりこんだ。最盛期には9棟に増えた」
原発事故前、飯舘村には花の生産者が90人余りいたそうですが、住民は離散。避難先の福島市や栃木県那須などで再開した人もいましたが、避難指示が解除された昨年春から村で再開した農家はまだわずか。啓一さんは、除染関連工事の遅れで1年後の再開になり、やはり国の支援で3棟(約10アール)の新しいハウスを建てました。「大事なのは販売先が確保されていること。原発事故前から高橋さんらと共に長い付き合い、信頼関係のあった大田市場の花き卸業者が、今回の栽培復活に当たっても取引の再開を約束してくれた」
お盆を過ぎ、出荷は秋のお彼岸、ブライダルシーズンまで続きます。ただ、新しいハウスの設置が昨年秋で土づくりが間に合わず、うち1棟でトルコキキョウの生育不良が出ました。連作を避けるため2年目の栽培場所にしようと、原発事故前からある古いハウスに土を肥やすための牧草を植え、すき込んでおり、そこで代わりのカスミソウを育てました。心配を吹き飛ばすように高原の花は見事に咲き「ここでまた生きる自信を花がくれた」
ハウス群の向こうに除染土袋の仮置き場が広がっています。かつてスイスの谷のような美しい山里で、比曽の人々は標 高600メートルの高冷地で水田や和牛繁殖などを営みました。しかし、除染された水田や牧草地には雑草が茂り、牛たちも全村避難に伴って処分され、農地は荒れ野のよう。避難先から戻った住民は、87世帯あったうち6世帯です。
「住民が安心して帰れる環境に戻して」と、啓一さんは環境省の現地担当者らに訴え続けました。原発事故当時は行政区長を務め、避難まで住民のまとめ役として奔走。帰還までの結束を呼び掛けましたが、その後の除染作業は不十分でした。村の農家には居久根(屋敷林)があり、環境省は「除染効果が薄い」と汚染土はぎ取りの対象にしませんでした。
啓一さんは仲間の農家と除染の検証測定を行い、16年に支援者たちと自宅の居久根除染実験にも挑みました。自ら重機で約20メートルまで枝を切り、奥行き40メートルの林床をはぎ取ると、周囲の放射線量は激減、家の中も0.15前後です。これらの成果を踏まえた徹底除染の訴えも国を動かせず、予定通り17年3月末の避難指示解除に至りました。
古里の現状を、啓一さんは約230年前の「天明の飢饉」の時代に重ねます。当時の相馬中村藩で「山中郷」と呼ばれた飯舘で死亡・失踪した住民は約4割。「餓死者に加え、疫病が流行し、病死、中毒死もあり、死者の数は増えるばかり」と記録された旧比曽村で生き延びたのが数戸。荒れ野で復興のくわを振るった入植者に啓一さんの先祖がいました。
天明の飢饉で失われた人口が回復するまで、明治時代の中ごろまでの歳月を要したといわれます。「地元に残った仲間がわずかでも、それは先祖たちが経験した現実と同じ」と啓一さん。「だが、先人の苦労を思えば、原発事故の痛手も乗り越えられる」と啓一さん。
トルコキキョウ、カスミソウのハウスの近くには、天明の飢饉で逝った無縁仏の小さな墓石が並んでいます。啓一さんはその一角を小さな公園のように整地し、「比曽の歴史の原点として、大事に守ってきた」。お盆や秋彼岸の出荷のためのトルコキキョウは、比曽の再興への希望の花であり、古里の行く末を見守る先人たちへの手向けの花でもあるのです。